12月 校長室より
やる気とAIとわたし
校 長 渡 邉 現
―――画家はなぜ、わけの分からない絵を描くのか―――。
この言葉を聞いたとき、わたしこそ全くそのように感じていたなあと思いました。数十億円もするというセザンヌの絵にだって、本心では「これは上手いのかな。」とか、ピカソの絵には「これは……。なんなんだろう。」とか。実は分かったふりのわたしです。本当は評論家や学芸員の方々の論評を聞いた受け売りの知識です。冒頭は、ラジオで流れていたアーカイブ放送でみなみらんぼうさんが解説を交えて話していた中でとりあげていた話題の一コマに出てきた言葉でした。
「セザンヌは、自分は写真のような絵は描けないと自覚していた。物を見るとき、写真のように全体を一点に集中させるような視点ではどうしても捉えることができなかった。そもそも人間は、全体ではなく部分で表情を読み取っているということに気づき、「それならば」と、セザンヌは写真のような視点ではなく表情を読み取る絵を貫いた。」とのこと。ピカソの絵も、そういうことなのかもしれません。
私たちの日常の捉え方もそういった視点のようにも思います。例えば、今年の学校祭をいま振り返れば、あの眼差しだったり、あの表情だったり、歓喜だったり、拍手だったり、そういった表情は、機械のような一点の視点ではなく、思い出として幾重にもなって蘇ってきます。
写真が発明されたときにも、家庭用ビデオカメラが普及し始めたときにも、セザンヌのような感覚は、きっと誰しもに残ったことではなかろうかと想像します。結局、写真のいいところもあるし、ビデオのいいところもある。そして、もちろんその場で実際に自分の視点で見て感じたことも、写真やビデオに替えられないいいところがある、ということは今ではだれしも理解していることです。ワープロの頃のわたしには、手書きの年賀状で「懐かしい字だなあって思ったよー」と交流していたことも、ほんの一昔前では毎年の恒例でした。
AIが、私たちの日常にどんどん普及しています。もし、AIに意思があるとすれば「人間とはなぜ、わけの分からない行動をとるのか」といったところかな、とわたしは思ったりします。私たち人間とは、「なぜそれをするの?」と言われれば、「やりたいから」だったり「得意だから」だったり「人に喜ばれるから」だったりします。「やりたい」とか「学びたい」という人間の行動欲求は、きっとAIには分からないだろうなと想像します。「学びに向かう力、人間性」とは、学習指導要領で示している育成を目指す資質・能力のうちの大切な柱の一つです。
「学びに向かう力」と「人間性」が育まれる妹背牛中学校を目指します。
今年も残りわずかとなりました。皆様のご支援ご協力に深く感謝申し上げます。来年も皆様方にとりまして素晴らしい年でありますことをご祈念申し上げます。どうぞよいお年をお迎えください。